画家 葛飾北斎は江戸末期の宝暦10年(1760年) 本所割下水付近(現在の墨田区)で生まれ、90年の生涯のほとんどを墨田区内で暮らしたといわれています。
晩年『富嶽百景』の中で北斎は百数十歳まで努力すれば生きているような絵が描けるだろうと記しました。また絵を描く人々のために作画技法や絵の具の調合法を記した絵手本等も数多く刊行しています。
画狂老人と名のり、絵を描くことに人生のすべてを捧げ、
世界の芸術家に影響を与えた北斎のユニークなエピソードをご紹介します。

スカイツリーの近くで93回引っ越したよ

掃除が大嫌いで汚れたら引っ越す。その数なんと93回。でも引っ越し先はいつもご近所。現在の墨田区亀沢付近で生まれた北斎は一生のほとんどをすみだで過ごした。北斎漫画にスカイツリーに似た塔が描かれているのも何かのご縁か。

ダビンチの生まれ変わりというウワサ

接骨家に弟子入りし人体の構造を学ぶ。「師造化(天地万物の造物主こそ自分の師)」という印を好む。あらゆる現象を深く探究し天文学にも造詣深いといわれる北斎は、15世紀の画家・博学者レオナルド・ダ・ビンチとの共通点も数多い。

その名は北極星からもらった!

現在のスカイツリー北側にある柳嶋妙見山法性寺に信仰を寄せていた北斎。画号を30回も変えたが、後生に伝わる「北斎」の名前は日蓮宗の妙見(北極星と北斗七星)信仰に由来する。星に向かって筆をふるう人物は北斎自身か?画狂老人卍84歳の傑作。

見えるもの 見えないもの ぜんぶ描く

描いて描いて描きまくり3万点超の作品をのこす。勝川派、宗理派を学び西洋絵画も研究し、1人の人間が描いたとは思えないほど画風を変える。動植物、人の生活、風景、故事、妖怪、時空を超え、森羅万象あらゆるものに筆を走らせ続けた。

80歳 ネコがうまく描けぬと泣く

「70歳より前に描いた絵は取るに足りない」と富嶽三十六景に記していた北斎。80歳の頃「ネコ1匹うまく描けない」と泣いていたという話もある。弟子が増え有名になってもひたすら上達を願う画家は、純粋な子どもの心を持ち続けていたのかもしれない。

若き絵師雷に打たれ売れっ子に!

絵の師匠に破門され失意の日々を送っていた北斎は、信仰していた柳嶋妙見山法性寺での21日参りの満願の日、落雷に遭う。その後めきめきと絵が売れ出した、と法性寺には記されている。「雷斗」という名で絵を描いていた時代もある。

ゴッホやモネもあこがれた

アメリカの雑誌LIFEで「この1000年で偉大な業績を残した100人」に日本人でただ1人選ばれた北斎。ドガ、モネ、セザンヌなど影響を与えた芸術家は数知れず。ゴッホは弟への手紙で「聡明で博学な哲学者」と北斎の生き方についても賞賛している。